ウェーバー『職業としての学問』岩波文庫[1919=1936→1980]
◆学者という職業の待遇
・ドイツでは金権主義的前提に立っており、生計を立てることが困難。(10)
・アメリカでは最初から有給。しかし解雇されうる。
・ドイツの大学はアメリカナイズされつつある。すなわち、研究所の設立は、「国家資本主義的」な事業である。(13)
◆学問と教育
・「学者としての資格」と「教師としての資格」の二つを備えることは難しい。(18)
それは、偶然というほかない。(20)
・「わが国の伝統にもとづいて、大学は研究と教授という二つの課題を等しく尊重すべきである。」(20)
◆学問の専門化
・「こんにち、なにか実際に学問上の仕事を完成したという誇りは、ひとり自己の専門家に閉じこもることによってのみ得られるのである。これはたんに外的条件としてそうであるばかりではない。心構えの上からいってもそうなのである。」(21)
・「学問に生きる者は、ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ、自分はここにのちのちまで残るような仕事を達成したという、おそらく生涯に二度と味わえぬであろうような深い喜びを感じることができる。」(22)
・「例えばある写本のある箇所の正しい解釈を得ることに夢中になるといったようなことのできない人は、まず学問には縁遠い人々である。」(22)
◆研究の素人と玄人
・「一般に思いつきというものは、人が精出して仕事をしているときに限って現れる。…素人の思いつきは、普通、専門家のそれに比べて優るとも劣らぬことが多い。実際、われわれの学問領域でもっともよい問題やまたそれのもっとも優れた解釈は、素人の思いつきに負うところが多い。…素人を専門家から区別するものは、ただ素人がこれときまった作業方法を欠き、したがって与えられた思いつきによってその効果を判定し、評価し、かつこれを実現する能力をもたないということだけである。」(24-5)
◆学問における個性
・学問や芸術において個性をもつのは、その仕事に仕える人のみである。「たとえゲーテほど偉大な人でも、もし自分の『生活』そのものを芸術作品にしようなどとあえて試みるときは、必ずその報いを受けなければならない。」(28)
・自分がどんな人間であるかを体験で示してやろうとする人は、学問の世界においては個性的ではない。
◆学問と知識の進歩
・学問は、芸術とちがって、つねに進歩すべく運命づけられている。(29)
・「学問上の『達成』はつねに新しい『問題提出』を意味する。それは他の仕事によって『打ち破られ』、時代遅れになることを自ら欲するのである。学問に生きるものはこのことに甘んじなければならない。…われわれ学問に生きるものは、後代の人々がわれわれよりも高い段階に到達することを期待しないでは仕事をすることができない。」(30)
→学問による「主知主義的合理化」(=学問は学問のためにある)は何を意味するのか。(32)
◆主知化/合理化の意味=「魔術からの解放」
・「それを欲しさえすれば、学びとることができるということ」(33)=「なにか魔術的な力が働いているという道理がないこと」
◆進歩と無意味化
・文明人は、無限の進歩(さらなる進歩の段階)へと開かれている。しかしこの「進歩性」のゆえに、死という現象は無意味なものになる。(34-5)
◆学問の職分(学問の価値はどこにあるのか)
・プラトンによる「洞窟」の比喩(36)・ルネッサンスにおける「実験」の価値(38)・神をみいだす仕事(40)・幸福への道(42)
→これらの価値観はすべて滅び去った。では?
・トルストイによれば、学問は、「われわれはいかに生きるべきか」に対してなにも答えない無意味な存在である。しかし問題は、「それがとのような意味で『何事も』答えないか、またこれに答えないかわりにそれが、正しい問い方をするものに対しては何か別のことで貢献するのではないか、ということである。」(41-2)
・まず、学問は「知るに値する」問題を研究する。(43)
・例えば医学は、生命を保持する技術を研究するが、しかし、はたして生命は保持するに値するかどうか、という問題は問わない。(44-5)
・社会科学(社会学、史学、経済学、国家学など)は、教室では政策について論じるべきではない。「まことの教師ならば、教壇の上から聴講者に向かって何らかの立場を——あからさまにしろ暗示的にしろ——強いることがないように用心するであろう。なぜなら、『事実をして語らしめる』というタテマエにとって、このような態度はもとよりもっとも不誠実なものだからである。」(49)
→「知的廉直」という作法。事実と規範の二分法(50)
・「徳育上の功績」:「[教師の]弟子たちが都合の悪い事実、たとえば自分の党派的意見にとって都合の悪い事実のようなものを承認することを教えること。」(53)
・神々の争い→日常茶飯事となる→この事態に対して若者は耐えられずに、「体験」を求めるようになる→この「弱さ」は、時代の宿命をまともに見ることができないことにある。(57)
・憂慮すべきは、教師が大学の授業で指導者ぶることである。(60)
◆学問が生活に及ぼす寄与
@「実際生活においてどうすれば外界の事物や他人の行為を予測によって支配できるか」についての知識。 A「物事の考え方、およびそのための用具と訓練」。 B明確さへの導き=目的とそのための不可避的な手段とのあいだの選択、付随現象の可能性について。(61-2)
・ある立場は、世界観の根本態度から内的整合性をもって意味をたどることで導びきだされる。学問は、この意味をたどることで、「各人に対して彼自身の行為の究極の意味についてみずから責任を負うことを強いることができる。」(63-4)
◆宗教と学問
・当時の、小予言者の宗教に走る若者に対して、学問はその隠蔽を批判する(66-)
・神学における主知的合理化は、その知識を所有するものにとってしか有効でない(68-9)
・宗教へ帰依することによって知性を犠牲にするという態度が問題。
→「時代の宿命に男らしく堪える」べき。(72-3)
□学問は、自らの存在価値を根拠づけることはできないが、しかし、知的誠実さの道徳を放棄して宗教へ逃避する人々を、戒めることができる。
喜多村和之『大学淘汰の時代』中公新書[1990]
◆大学の二つのタイプ:@学生の大学(ボローニャ)、A教師の大学(パリ)
→ボローニャでは、学生たちが自らの生活条件や権利を守るために組合を組織し、教師を雇い、その教え方を評価し、気にくわない教師は集団的ボイコットで脅したり、クビにしたりした。(60-61)
|
教師の大学 |
学生の大学 |
価値と目標 |
アカデミズム(学問的メリトクラシーや学問的生産性の追求) |
コンシューマリズム(消費者としての学生の必要性、満足の充足) |
大学の有力構成者 |
知識生産者としての教授団 |
学習の消費者としての学生 |
大学のアイデンティティ |
学問のセンター |
教育のスーパーマーケット |
大学の主要機能 |
研究 |
教育 |
教授団に対する役割期待 |
研究者 |
教師 |
学生の基本的性格 |
教授団への従属者。学問の自発的生産者 |
大学の顧客。学習の受動的消費者 |
評価主体 |
教授団による学生の評価 |
学生による授業評価 |
カリキュラム形成の根拠 |
学問専門化の論理 |
市場需要の論理 |
学問の自由とは |
教師の教える自由 |
学生の選択の自由 |
◆市場としての大学
・大学が売るもの:入会資格と卒業資格(学位/学歴証明書)
→「知識の家元制度」としての大学(梅棹忠雄)
・学生という消費者を保護する政策はない。患者やお客の利益よりも、売り手の利益に奉仕するという制度になっている。(73-4)
◆私立大学の入学案内用パンフレットより
「何になりたいのか」なんて、全然決まってなくたっていい。
「なぜ大学に来たのか」が分からなくったって、ちっともかまわない。
僕達には十分すぎるほどの時間があるのだから。
「大学で何をしようか」と、今はまだ迷っていたっていい。
「大学だから」といって変に意識する必要なんてまったくない
僕達にはいつだって、
優しく迎えてくれるキャンパスがあるのだから。
◆アメリカの大学の授業は厳しい
・毎回、50-200頁にわたる課題図書の予習 ・頻繁に宿題のレポートを書く
・授業でのディスカッションに参加する ・自分がよく準備してきたことを教師に示す
・カリフォルニアのバークレー大学では、60%しか卒業できない。
学問するという生活は、別の営み(スポーツ、音楽、文学、仕事など)よりも格別にすぐれているわけではない。また学問といっても、気合がなければできないと言うわけでもない。あなたにとって学問とは何か。学問というのは人生の中で、どのように位置づけられるべきものなのだろうか。ここで学問に対するアプローチについて、七つのタイプを区別してみたい。
@アクセサリーとしての学問。学問は、音楽や小説などと同様に、生活を豊かにするアクセサリーの一つであると捉える立場である。学問は、消費生活を豊かに演出するためのアイテムであるとして、ライフスタイルの美学という観点から摂取される。
A趣味人。あるいはアマチュア学問家。言葉の真の意味におけるアマチュアとは、学問を愛好する人のことである。「学問オタク」といってもよい。学問を究極の趣味とする立場である。ただし、たんなる愛好家にすぎない人のことを「ディレッタント」と呼んで軽蔑することもある。
B教養主義。学問は自分の人格成長に資すると考える立場。人生の理想として、真(学問)・善(道徳)・美(芸術)のすべてを追求し、人格としての「自己完成」をめざすタイプ。ちなみに、教育基本法の第一条によれば、教育の目的は人格の完成である。
C日常生活主義。自分の人間的成長にとって学問は重要であるが、しかし学問を中心にして生きたくはない。また教養主義のように、善(道徳)や美(芸術)をとりたてて人生の目標とすることにも気が引ける。学問や道徳や芸術を中心に生活するよりも、日常生活のさまざまな習俗のなかに喜びを見出して生きることのほうが幸せだ。この立場から、必要な範囲で実学的・習俗的知識を摂取しようというのが、日常生活主義である。
D学道主義。学問を一つの「道」とし、自己の精神を鍛練する場と考え、武道を志すように学問を志すという立場。学問的思索によって、世俗内で自分を完成させるのではなく、むしろ、世俗世界の感覚を超越したところに、理想の精神的境地を求めるという生き方である。
E学者主義。学問の成長を最優先して、その真理基準に服し、自分が学問的世界のなかで貢献できることに専念するタイプ。これは専門的研究者の任務であり、また運命でもある。
F社会派。学んだことを社会の中で生かそうと考えているタイプ。例えば、環境倫理学や行政学などを学んで、実際に社会運動に参加したり、公的な社会制度の運営やその改革に携わろうとしたりするタイプである。
以上、七つの類型を示してみた。アクセサリー派、趣味人、教養主義、日常生活主義、学道主義、学者主義、社会派である。この他にもいろいろなタイプがあるだろう。例えば、宇宙(コスモロジー)について瞑想するためにとか、教育をするためにとか、好奇心を満たすためにとか、学問を「心のより所」とするために、といったアプローチで学問に接する人たちがいる。こうしたスタイルのうち、どれを目指すかは各自の選択に任されている。もちろん、いくつかのタイプを同時に目指してもかまわない。また歳とともに、学問のタイプを変更することも必要であるだろう。ただし、安定収入を得るために学問するというのは、邪道である。学問を収入のための手段だと考えるならば、それは「学問」というよりも「仕事」や「勉強」と呼ぶべきであるだろう。